『ChaO』絵コンテから見る演出
何でもないことのスケールを大きく見せる
ダイナミックな見せ方をすることで映画としての面白さを作っている
『ChaO』にはレーザー光線も出てこなければ、特別強い刀なども出てきません。では、どのように劇中でアクションをするのかというと、カメラワークを駆使して”たまに起こる何でもないこと”のスケールを大きくすることで、画を面白く見せるような演出を施しています。
例えば、ステファンがバスタブの中でなぜか寝ており、溺れかけながら起き上がるシーンでは、呼吸できずに苦しむステファンと同時にカメラワークも引いていき、チャオが海から持ってきた真珠や貝、如意棒などの嫁入り道具で狭い部屋を埋め尽くしている画になります。
本来ならば、普通のカット割りで見せればいいような何でもないシーンも、こういったダイナミックな見せ方にすることで、映画としての面白さを作るようにしていました。

ショートストーリーをいくつも入れ込む
ひとつのシーンに要素がいくつも入っておりそれが本作の面白いところかつ自分らしい演出
以下の絵コンテは、主人公のステファンが病室で寝ているシーンです。この後、ステファンは人魚族のチャオと結婚するようシー社長から言われる流れになるのですが、シナリオ通りにコンテを起こしていくと事務的になってしまうため、面白く見せるためのショートストーリーをいくつか入れ込んでいます。例えば、ステファンの親友ロベルタの言う「ここの看護婦さんはお美しい方が多いですね」というセリフに対して、視聴者は「どんな美人なんだ?」と気になります。でも、このカットではあえて看護婦さんの顔を見せないようにしていたり、振り向くかと思いきやシー社長の大きな顔に遮られ、結局顔も見せないまま看護婦さんは退出してしまいます。そうすることで、このシーンへの集中力を高めてもらうという狙いがあります。
当のロベルタは、後半に出てくるステファンのためのロボットの設計図を書いています。しかも、美人な看護婦さんの背中を借りて書いており、これもまた観客の興味をそそる意味であえて入れている演出となります。
さらに、奥の絵画の前には本作のヒロインであるチャオが実は立っています。しかし、ステファンは気づいておらず、絵だと思っていたら突然チャオが飛び出してきて驚くという演出を入れています。このように、ひとつのシーンだけでも要素がいくつも入っていて、それが本作の面白いところ、かつ私らしい演出であるとも言えます。

シーン別で見る演出解説
忘れた頃にオチが降ってくる演出
画面には描かれていない出来事が本作には何カ所も出てくる仕組みに
下のシーンは、造船会社を経営しているシー社長の後ろで、チャオの父である人魚王国の王様が怒った際に起きた津波の影響により水面が大きく揺れ、社長ご自慢のクルーザーのマストが折れてしまうというシーンです。
ちなみに、このとき主人公のステファンはクルーザーの上でデッキ掃除をさせられており、津波に飲まれて溺れてしまい、先の病室で介抱されるシーンへと繋がっていきます。そもそも人魚族は、船が海を行き来しているせいで魚が傷ついたり、ゴミを捨てる人間が現れたりと、船の存在に対して怒りを持っていました。そこで、会社の社員が人魚と結婚すれば人魚族との距離が縮まり、会社経営が楽になると考えたシー社長は、「トップの席を用意しておく」とステファンに出世話を持ちかけるといった話の流れになっています。
その後、遊園地を貸し切ってのステファンとチャオのデートシーンが数シーン後に描かれるのですが、先ほどのシーンで折れたクルーザーのマストが空からデート現場に降ってきてハートを描くような演出を入れています。そうすることで、「あのマスト、何日間も空を飛んでいたんだ」と画面外のストーリーを観客が想像できるような仕組みにしています。このように、画面には描かれていない出来事が本作には何カ所も出てきており、忘れた頃にオチが降ってくるような仕組みになっています。

複雑な気持ちを抱いてもらうことこそが『ChaO』の面白いところでもあり狙いでもある
ステファンとチャオの別れを世間に公表しようとするマスコミのレポーターが如意棒で吹き飛ばされてしまうシーンがあります。如意棒のおかげでステファンは追っ手から逃れられたわけですが、このマスコミも終盤で再登場し、予想外の展開になるような演出を入れています。
それがクライマックスのシーンで、傷ついた娘のために国王が怒り、ステファンと大事な話をしている最中、ここぞとばかりに先ほどのレポーターが飛ばされてきて、ステファンに向かってまたマイクを向けるというふざけた演出になっています。音楽監督もこのシーンをどう捉えたらいいのか、どんな音を入れていいのかを随分悩んでいました。しかし、その複雑な気持ちを抱いてもらうことこそが、『ChaO』の面白いところであり、狙いでもありました。

別れのシーンの演出
POINT1/無音による緊張感で締める
観ているお客さんがポップコーンすら食べられないくらいに緊張してもらいたい
本作は恋愛ものであり、このシーンはまさに別れのシーンなのですが、ストーリーがまだあまり決まっていない頃からすでにイメージボードを描いていたところでもあります。本来なら、メロディアスな音楽がつくような場面ですが、あえて音楽をなしにし、緊張感を生ませて締めるようにしています。工事現場という雑音の多い中で、喧嘩をするという設定を作り、ステファンがチャオにきつい言葉を吐くところでは、ドリルの音がその声と被って聞こえないくらい雑音が大きくなり、手前には車が通って、ふたりの状況だけしか見えないような演出にしています。
そして、「もうチャオとはいられない」というような言葉をステファンがチャオに言い放ったとき、チャオは人魚の姿から魚の姿に戻ってしまいます。なぜなら、チャオは相手を信頼できなければ人魚姫の姿になれなくなってしまうからです。この場面だけは、うるさいドリルや車の音も全て絞って無音に近い状態にしてもらい、まるで真空のような状況にしています。「見ているお客さんも固唾を飲み、ポップコーンすら食べれないくらいに緊張してもらいたい」という想いで作ったシーンになっています。



POINT2/悲壮感を助長する光の演出
喧嘩して傷ついてしまうチャオの心の痛みに突き刺さるような光が欲しかった
このシーンの背景は、美術監督の滝口さんに「奥の建物の1カ所だけは強く光らせてください」とお願いをし、強く夕焼けが当たってオレンジ色に光った美しい背景を描いてもらっています。これは、僕が六本木を夕方に歩いていたときに実際に見た光景で、気持ちが楽しいときには夕焼けもそう映るけれど、寂しいときには本当に寂しい印象として強く残るんじゃないかと感じ、喧嘩して傷ついてしまったチャオの心の痛みに突き刺さるような光が欲しいと相談してつけてもらった光なんです。また、工事現場の音もふたりのギスギスした感じを表現していたり、人様に見せられないような変身姿や、ずぶ濡れになるまで泣いてしまう姿など、目も当てられないようなシーンにしたくてこういった演出にしています。
POINT3/変身するシーンを見せる
魚の姿に戻ってしまうシーンこそあえて真正面から捉えた残酷なシーン
チャオが魚の姿に戻ってしまうシーンには、実はもうひとつ想いがあります。過去にデビルマンやウルトラマンなど、いろいろな変身モノの作品を見てきましたが、その際に気づいたことなんですが、AからBに変身する過程ってとても中途半端でグロテスクなものが多いんです。その部分を作中でどうしても見せたいと思いました。
これまでチャオが人魚の姿になるところはあえてあまり見せていなかったのですが、このシーンでは真正面から魚の姿に戻ってしまうところをカットを割らずに見せています。本人からすれば最も見られたくない部分ですが、魚の姿に戻ってしまうシーンこそ、あえて真正面から捉えてやろうという残酷なシーンになっています。



さまざまなキャラクターの生活を描いた演出
ただの脇役ではなく、主人公に関わる人物のひとりひとりとして丁寧に描いている
本作では、「どのキャラクターも皆対等な立場でこの街で生活している」というリアリティを追求しています。滝口美術監督のこだわり抜いた背景美術に目が行く以下のシーンでも、おばさんが横切ると奥からバイクに乗ったオメデ大使というキャラクターが通ったり、ステファンとロベルタが歩いてきて、カメラが振り向くとステファンの叔父さんと叔母さんが歩いていたりします。ここでは、各キャラクターの街での生活を描くことで、皆ただの脇役ではなくステファンというキャラクターにしっかりと関わる人物のひとりひとりとして存在すると感じられるようにしました。アニメとは言ってしまえば作りごとなので、それを自然に見せるための計算をしながら作っていく必要があります。そういった意味でも街での生活シーンは、一見地味に見えるけれど、どんちゃん騒ぎをするようなアクションよりも大変ですし、とても大事なシーンなんですよね。




自然な導線を含む登場の演出
自然ながらも他ではあまり見ないような登場シーンにしたいと考えた
下のシーンは、チャオがひとりで上海の街に出るものの、まだままならない状態のときに、少しだけおしゃれをして被った帽子が強風に吹かれて飛ばされてしまうというシーンです。
帽子の飛んでいった先には、チャオの友人となる女性マイベイが帽子をキャッチしながら登場します。ここでは、自然ながらも他ではあまり見ないような登場シーンにしたいと考え、こういった自然な導線を含めた演出にしています。

帽子を返す白い鳩の演出
「アニメーター」という仕事自体にも変化がなければ描いていてつまらないと思った
チャオとステファンのヨリを戻して仲直りする夕焼けのシーンでは、だいぶ前のシーンでもう一度飛ばされてしまったチャオの帽子を、白い鳩が「仲直りできて良かったね」とお祝いのように返してくれる演出を入れています。このようにギャグなのか喜んでいいのかも分からないような見せ方で『ChaO』という映画は終始成り立っています。
このようなシーンを描いて下さったアニメーターの中には僕と同年代のアニメーターもいて、試写会に見にきてくれたときに「こんなことをやりたいと思ってきたけど、なかなか仕事としてはやれなかったんだよね」という感想をいただきました。ダイナミックなシーンを描けるアニメーターはそういった作品の依頼が多く、ガス抜きができるような作品はあまりないんです。『ChaO』はそういった意味で、少しの余白やのりしろがある作品でした。きめ細やかにキャラクターの等身や表情を神経質に合わせなければならない作品が多く存在する中、本作はデコボコで何が正解なのかも分からないような作品です。というのも、僕自身がアニメーターでもあるので、「アニメーター」という仕事自体にも何か変化がなければ描いていてつまらないと思ったんですよね。だったら、全く関係のないものでストレス発散をするよりも、アニメの仕事で気が晴れてくれたらそのほうがいいし、参加するアニメーターもそんな想いで描き終えてくれたらと思ったんです。つまり、『ChaO』という作品は僕自身「こんな仕事ができたらいいな」と思いながら作っていった作品なんです。

アニメ映画における「演出」の役割とは?
いかにお客さんに楽しんで帰ってもらえるかということばかりを考えられる資質が大切
演出を考える際に特に意識しているのは感情の振り子です。振り子の振れ幅が大きければ大きいほど「面白かった」という感想になると思うので、できるだけ振り子を叩く強さをイメージしながらコンテを描いていました。
演出に必要な資質とは「イタズラ心とサービス精神」であると考えています。
いかにお客さんに楽しんでもらえるかということを考えられることが大切で、基本的な映画のルールは大事ですが、それだけでは堅苦しくて面白くないものができてしまうのではないかと思うのです。映画はあくまでもエンターテイメントですからね。
